詳 細

2013-04-27

【傳@達 私見試論】成語を運用する際の注意点―同床異夢と呉越同舟から説き起こす

    

 

 「茅先生の三つの提言――日中関係の好転のために(発刊の辞に代えて)」の中に言及した大型国際シンポジウムには「同床異夢ではなく呉越同舟の関係を」という副題が付いていた。

 

 「同床異夢」と「呉越同舟」はどちらも中国の成語である。一見したところ、前者はマイナスイメージ、後者はプラスイメージの言葉なので、並べて対比させてもなんらさしつかえはなさそうにみえる。


 しかし、どうもどこかしっくりいかない感じがする。


 それは、国家間の関係を言い表すのに、「呉越同舟」の方が「同床異夢」よりも良いとは言いがたいからだ。


 床を共にするのは夫婦であり、異夢とは感情が合わないことを意味する。呉と越は敵同士であり、同舟は一時の利害を共にすることをいう。夫婦関係と敵対関係とは質的に異なるところがある。日中間に起こった問題については、我々はむしろそれが夫婦喧嘩であってほしいと願う。喧嘩が終われば仲直りの可能性があるからだ。たとえ別れたとしても、彼らはやはり元夫婦であり、「一日夫婦、百日恩」(いったん夫婦になったら、長い間の愛の絆ができる)なので、呉越間のゼロサムゲームのような局面にまで至るようなことはない。


 シンポジウムの趣旨からいうと、おそらく「呉越同舟」を使ったのは誤りで、本意からすれば「同舟共済」とするべきだ。


 「呉越同舟」と「同舟共済」は同じ故事から出ている。春秋時代の『孫子・九地』に「そもそも呉の人と越の人とは互いに憎み合っているが、同じ舟に乗って川を渡る時に風に遭えば、互いに左右の手のように助け合うことになる」のくだりがある。三国時代に到り魏の文欽が『郭(わい)への手紙』をしたためた際には、まとめて「同舟共済、安危勢同」(同じ舟で一緒に川を渡る時は、安全と危険の状況は等しくある)と書いている。

 

 それでは、同じところから出ている「呉越同舟」と「同舟共済」との違いは一体どこにあるのだろうか。

 

 両者には、どちらも「同舟」の二字があるが、前者は「呉越」に重点があり、後者は「共済」の方に重点が置かれている。前者は、「呉越」という言葉を通じて二者間の敵対関係のことを言っており、後者の方は、「同舟」が表すものは二者の関係でも、多数の関係でもよく、敵対していたかどうかについては問題にしていない。両者の成語の着眼点はすでに全く異なっていたのだ。中国のことわざに「五百年修行して、はじめて同じ船に乗ることができる」というのがある。運良く同じ船に乗り合わせたら、お互いにこれは一つの縁だと認め合うであろう。

 

 このような事例から、我々は成語を運用するときの注意点をいくつか導き出すことができる。

 

 第一は、成語の構成部分、つまり単語やフレーズの意味の一つひとつに注意すること。成語の特徴は、言葉が簡潔で意味が尽くされており、高度に練り上げられている点だ。したがって、字一つ、あるいは単語一つが重要な役割を担っているのである。自分が必要としている部分――ここでは「同舟」――を除いた、その他のフレーズの意味もゆるがせにはできない。

 

 第二は、似ている成語の異同を注意深く分析すること。特に、同じでない部分には一体どんな違いがあり、それはどういった程度の違いなのかということであり、そうした中から、自分が言いたいことに最も適したものを探し出すということである。

 

 第三は、成語を使う時の文脈に注意すること。たとえば、「呉越同舟」を自分の夫婦関係に用いたならば、それはユーモアのある冗談になるだろうが、国家関係に使ったならば、それは呉越の相争う残酷な結末を人に連想させてしまうだろう。

 

 最後に、さらに注意を要するのは、異なる文化の背景が生み出す理解の違いである。もしも日中双方が出席する会議であったり、あるいは日中両国が報道する可能性があったりする場合には、特に気を付けなければならない。基本的な意味が同じ一つの成語であっても、日中それぞれが千数百年も使っている間に生じた変化のために、双方の受け止め方や理解に微妙な差異が存在している可能性があるからだ。